「って、誰かが言ってた。」それはアダムグラント氏だったり、辻仁成氏だったり、為末大氏だったり、自分が一目を置いている人の言葉や考え方を拝借することがよくある。えへ。
自分がこうした、でなく、誰かが言ってた、ということで、それが本当かどうか自分で確かめる必要がないし、間違っていても自分は責められることがない。効率性を重視した、かつ守りの姿勢なのである。
そんな人の考え方の鎧の中でのんきに居眠りをしていたある日、ゴーヤチャンプルーがおいしくできないか、とレシピをいくつか調べていた。すると「豆腐はそんなに水切りしなくていいです」と鈴なりの村田シェフ(存じ上げなかったが有名そうな人)。「豆腐はレンジでチンしましょう」とコウケンテツ氏。おっとっと?これは、、、どっち??
さらにはその日、絵本作家のエッセイや絵本のあとがきでも子どものしつけについて、正反対な姿勢を目にした。「挨拶など子どもだから無愛想でも、なりゆきのままでいい」(安野光雅氏「かんがえる子ども」より)「むかし寺子屋で学んでいた時代、子どもたちは文字の基本を学ぶと同時に礼儀作法まで学んだと言います。玄関で脱いだ靴の揃え方から、挨拶の仕方、正座の仕方、姿勢の正し方など大人がきちんと教えていました」(戸田デザイン研究所「あいうえお えほん」あとがきより)
むむむ。まるで神さまが自分で考えることの大切さを啓示してきているかのような1日だった。
「この人がこう言うからこうなのね確かにそうだウンウンウン」と自らを振り返ることなく、なるべく早く答えに辿り着きたい自分は非常に動揺した。荒波に船が左右に揺れ、ブンブンと欄干の端から端に転がされている気分であった。あはは。あっちのプロはこう言って、こっちのプロはこう言ってる。どっちももっともなことを言っている感じがする。自分がどう思うか、どこに行きたいか、の軸がないとこういうときに困るのだ。
自分で考えるということは、時間がかかる。レンチンあり/なしで豆腐の水分がどうゴーヤチャンプルに影響するのか、自分の好みはどちらなのかを確かめてみないといけない。礼儀作法のしつけについて、奥深くに眠った自分の経験を揺り起こし、さらにはそれを別人格である子に試し、様子を伺わないといけない。やることが溢れている中で、そんな些細なことをやっていたらキリがない。でも、その目の前にあることを考えずして、考えたいことやりたいことは果たして何なのか?
誰か教えてくれ!とアパートの一室でヘルプを叫ぶ。でも荒波の中、目的地とその船の性能を理解して、舵を取れるのは自分しかいないのだ。どんなに時間がかかろうが、そうやって自分で何とか辿り着いた答えほど感動するものはない、のではないか。
「って誰かが言ってたけど、自分はどうなの?」前述の「かんがえる子ども」を読みながら、日々の姿勢を新たにした今週のことでした。
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