滞米日記「結婚指輪、きえる」

結婚指輪がなくなってしまった。Labor Dayの三連休の初日、Hay Marketとイタリア街へいつもと違う雰囲気を味わおうと出かけた後だった。

帰宅後すぐに窮屈なジーパンを脱ぎ捨て、シャツのボタンを外した。すると、さっきまでつけていたはずの、いつも首の周りで小ぶりなダイヤにくるくると振り回されているはずのネックレスが床に落ちているではないか。え?っ。そこにあるべきでないものがある。小学生の時、教室の机と机の通路の間に生理用のナプキンが開いた状態で落ちていたときぶりの感覚である。

出産後、体質が変わったのか肌荒れしやすくなった。指輪をつけた指がかぶれるようになったのである。そして取り急ぎ策として、結婚指輪をネックレスにつけておくようにしていたのである。

そのネックレスがいま、床に落ちている。壊れたのか?いや、壊れていない。指輪は?動悸を抱えながら、無言で周囲を探す。・・ない。あるはずがない。落下音がなかったのだから。まあ落ち着け、きっと車に落ちている。息子をカーシートに押し込んでいるときにでも落ちたのだろう。こんなことが我が身に起きるはずがない。かすかな絶望を胸に車を確認しに行く。・・・・ない。かすかな絶望がさだかな絶望に変わった。

覚えている。結婚指輪を買いに行った日。ファッションやアクセサリーに無頓着だからこそ、ただのシンプルな銀の輪っかではなく、ダイヤがついているものが良かった。他のよりも少し高かったけれど、それを夫は叶えてくれた。子どもの頃から母の指についていたもの、大人のつけるイメージがあったものが、自分の指につくようになった。いつ別れるかわからない、そういう不安定な関係(笑)だった夫と、公式に日々を共にする関係になった。結婚して6年、どんな喧嘩をしたって指輪はお互いの指についている、そういう、初心や核にあるものを象徴してくれるものだった。

年々ゾウみたいになっていく手とその指輪

考えれば考えるほど、ことの重大さが押し寄せてきてどうしていいのかわからない。とにかく、意味がわからないのだ。何で落ちたのか、どこで落ちたのか、見当がつかなければ、自分を責めようにも責められない。謝ろうにも謝れない。(謝れ)

指輪を失くし、1日中探し周り、最後の最後で見つけ出すロマンスドラマのエンディングが思い浮かぶ。いやいやあれはドラマだから、と日々の生活でいっぱいいっぱいなわたしにはいまそんなことを信じられる気力も体力もない。ただただ、言葉の通り、申し訳ない。

だからせめて、夫とお揃いの指輪をして、一緒に人生過ごすことになったときのうれしかった気持ち、わくわくする気持ち、相手を大切に想う気持ちはいまも変わらない、ということは書いておこう、と思ったそんな先週のことでした。がーん



コメントを残す