1ヶ月ほど前、息子に卵アレルギーがあることがわかった。ある出来事から嫌な予感がしていて、離乳食開始前にお医者さんに相談した。そうしたら念のため血液検査をすることになり、黄身にも白身にも陽性反応が出た、というわけである。家の近くの池のほとりにあるお気に入りのベンチに腰掛け、検査結果を開き、ズシーンとお腹が重くなった感覚は今でも覚えている。
まず頭に浮かんだのは、卵焼きである。日本の朝食の女神さまともいえる卵焼きを息子に食べさせてあげられないのか、と沈んだ。というか待てよ、それどころか卵かけご飯も、煮卵も、目玉焼きも、スクランブルエッグも、オムレツも、パンも、マフィンも、フレンチトーストも、思いつく限りのおいしい朝食ぜんぶだめじゃん、と顎が地面に落ちた。朝食だけならまだいい。卵を含む食材一覧にわたしの心は砕け散った。
救いは、成人するまでにほとんどの人が卵アレルギーを克服する可能性が高いということ。それでもその“ほとんど”に入らない可能性が消えたわけではない。性格上、楽観的に自分たちにはそんなことが起こらないデショウなん思えない。良いことも悪いことも、何万分、何千万分、何億分に一の確率でも、自分に起きるときは起きる。そうやってしばらくお腹の中に重い石を抱えて過ごすことになった。
SNSでたまご料理を目にするたびに憂鬱になった。(発信している人が悪いわけではない、と明確にしておく)このおいしそうなたまご料理たちを息子は一生食べられないかもしれないんだ、と思ったら悲しくて仕方なくなった。日常を送り気が紛れたかと思ったら、ふと何かの投稿でお腹の石が暴れ、気持ちが落ち込み、また日常で気が紛れて、を繰り返した。
何度もいうがこれは完全に受け取る側であるわたしの問題である。だからこそ、自分の発信が知らぬうちに誰かの重しを重くしていることもあるんだろうな、と思った。そう気がついてからは“自分にあるもの”に意識が行くようになった。例えば、食べるものが手に入ること。それらを安心して食べられる環境にあること。(戦争中のガザ地区ではそもそも食料の流通ルートがイスラエル軍によって封鎖され、家畜の餌を水で伸ばして食べていると聞いたことがある)身体が健康で口から食べ物を食べられること。食べ物を舌で味わえること。美味しいものを美味しいと共有できる人が身近にいること。そもそも、生きていること。
こう考えれば卵アレルギーがちっぽけなことに思えてくる。卵が食べられなくたって、美味しいものはたくさんあるはずだ。少なくとも唐揚げとスパイスカレーは食べられる。ベジタリアンの友だちから美味しいレシピを教えてもらおう。そうやってまた自分の世界が広がっていく。きっと葛藤は続くけど、少なくともポジティブな側面も考えられるようにはなってきた、今日この頃の話であった。へへへ。
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