Life of T

アメリカ・ボストンでの生活のこと


滞米日記「無料でコーヒーが飲みたいです」

誰かがやってくれるだろう精神で生きてきた。自分が感じている不満は誰かも感じていて、自分が持っている情報は誰かが持っていて、別に自分が動かなくたって、自分が声を上げなくなって、誰かがやって、どうにかなる。どうにかならなければ、自分が我慢すればいい。

コーヒーマシンのあるアパートのラウンジへのアクセスが9時以降になったのだ。我が家では朝、夫の出勤前にフゥと夫婦でコーヒーをいただくため、それでは遅い。何百万人の住民が不便に思ったことだろう。きっと誰かがクレームを入れて、入室時間が早くなるだろうな、と思った。

その夜、「アパートにコーヒーマシンのこと、メールした」と夫氏。まさかの、ここにいた、その誰か。あはは。そして次の日、アパートからメールが来た。ラウンジを朝6時から開放する、とのこと。

この出来事で、ふと思ったのだ。誰かがやってくれるだろう、と自らの不便や組織や社会の問題を前に見てみぬふりをする日々でいいのか?と。たかがアパートのコーヒーマシンの問題が、自分のことや社会に対する無責任さを指摘されているような、なんでか、突然、そんな気分になった。

だから今週は、まずは自分が心地良く生きることに対して、責任を持って過ごすようにした。アパートのコーヒーが(またコーヒー?)、無料の時間なのに有料になっていたら、「あの、無料になってないです」と恥を忍んでコンシェルジュに伝えた。アパートリノベ後にコミュニティで使えるプリンターがないか、念のため確認をした。息子の訪問養育が先生の都合でキャンセルになったのを補講することは出来ないのか確認した。夜育児でイライラしかけたら、夫に息子を託し、ジムに行く時間を設けた。

こんなことも今までの自分だったら行動を起こさず、全部自分で飲み込んでいた。相手の仕事の邪魔をしたくない。穴を突いて気まずい思いをしたくない。面倒くさいやつだと思われたくない。そのくらいなら自分が我慢すればいいし、誰かがいつかどうにかするだろう。

相手のことを考えているようで、考えていない。どこかで誰かが自分を快適にしてくれると思っている。そしてそれは回り回って、誰かの不快は自分がどうにかしなければいけないものだと、自分を縛ってきた。

これらの負荷をプップップーと歩きっ屁のように人知れず小出しに消化できればいいが、人間というかわたしは、そううまく出来てはいない。そしてガスが行き場を失い、挙げ句の果てには身近な人に特大っ屁をかますことになる。

自分をしあわせにできず、人をしあわせにはできない。誰かさんの遠い言葉がじわじわと身体に染み渡り始めた、そんな1週間でした。



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