Life of T

アメリカ・ボストンでの生活のこと


子育て日記「イヤイヤ期がはじまった?」

ノーと言えることって素敵やん?と夫婦で話したある日。イヤイヤ期が始まった気がする。

まだ軽めのノーである。道端で寝転ぶこともなければ、制御不能に暴れ回ることもない。ただ、朝起きて開口一番、「バアア(バナナ)」と言われる。半開きの目でバナナを渡すと、「ノー」「オエンジ(オレンジ)」となる。みかんねはいはい、とみかんの皮を力の入らない指先でなんとか剥き上げ渡すと、「ノー、ゴアン(ごはん)」といわれる。むっ、と怒りに少し目を覚ます。そして座って半分眠りながら対応することを諦め、ノソノソとキッチンへ向かう。具材を適当に用意して(主にしらすを解凍または納豆をまぜる)、海苔で巻いて、ふう、はい作ったよ、と渡すと「ノー」。

起床後30分しか経ってないのに、消えた坊を探し回りボロボロになった湯婆婆のようになってしまうのである。人は与えるだけという状況には適応していないように思われる。

それでも、ノーと言われるたびに、よく言った息子よと思う自分も1ミリくらいいる。ノーと言うことの方がイエスというよりもずっと難しくて大切な気がするからだ。

イエスが川の流れに身を任せるのに対し、ノーは川の流れに逆らって岸に上がるイメージである。岸に上がったことで一緒に流れていた相手をがっかりさせるかもだし、怒らせるかもしれない。そうやって人間関係が少し崩れるかもしれない中で、自分の意志の尊重や自分の感覚への信頼、そして自分を大切にする心がなければノーとは言えない。

しかも、大人になるにつれて相手の求めることや周りの期待が見えるようになり、さらには周りによく見られたいとか好かれたいとかそういう欲求が出てくると、ノーということがさらに難しくなってくる。

イエスマンというジミーキャリーの映画を思い出した。たしか、なんでも二つ返事でやってみればそれが最終的につながって素敵な人生になる、というメッセージだった。それに対して、やらないとか断るということの大切さはなかなか世の中には浸透していない。気がする。誰かノーマンという映画を作ってみてほしい。そしてわたしは今日も息子にノーと言い返す。あはは。



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