子どもがおもちゃの取り合いを始める。プレイデートでは日常茶飯事の光景である。親としてどう振る舞うべきか、少しばかり緊張が走る瞬間である。ある日、友人がおもちゃを取られ呆気に取られている娘に言った。「取られたら、いやだ、わたしが使いたいと言いなさい。相手が泣いていても気にしなくていいのよ。」
新鮮であった。おおこれが・・!とはじめて個人主義を目撃した瞬間であった。生個人主義である。
たぶん、集団主義的にこの場を収めるならば、モラル(この場合なら順番で使うというルール)に加えて、それぞれの子どもの執着度を天秤にかけて、その凹凸がだいたいイーブンになるように場を調整するだろう。それに対して、凸だろうが凹だろうが、自分がどうしたいかから始まるのが個人主義。その後、どう折り合いをつけるのか、わたしはまだ知らない。あはは。
“連帯責任”という言葉が象徴するように、集団で最大の結果を出すことを目標に、周りに迷惑をかけてはいけない(よく言えば補い合い、助け合う)と育ってきた日本人のわたしは衝撃を受けた。
中庸という言葉がある。何事も偏りなくバランスを取るべし、という儒教や古代ギリシャ哲学での教えである。個人主義と集団主義をはじめ、対極する2つの考えの間でバランスを取ることがいいことくらい誰だってわかっている。ただ、「何事もバランスだよね」と言いながら、そのバランスの取り方はわからないまま、会話が消化不良で流れていく、そういうことが多くあった。
でも、今回の出来事で少し答えに近づいた。両極端を体験すること、これがバランスを取るには欠かせないのだと。(言葉にすると当たり前すぎてかなしい)まさに、シーソーの上で片側に傾くギリギリの場所を探す、そんな作業である。
自分自身を差し置いてでも、周りの人を思いやり、助ける。その日本人(?)の利他精神はすばらしいものだと思う。でもたまには、他の人をどんなに失望させようが、悲しませようが、足手纏いになろうが、自分のことを1番に考える。自分の身体や心は自分のものであり、自分にまつわる決定権は自分にある。そういう考えに触れたことで、薔薇に縛られていた心がスルスル〜っとほぐれるような気がした、そんな今週でした。
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