「じゃあ、公園とかでも話したりするのかな」「いや、公園で話すことは基本的にないですね。多くはないですけど、友だちはいて、その人たちと話すことはありますケド」
カウンセリングでの一幕である。交友関係についての確認だったように思う。他にも色々と話したはずなのに、このやりとりだけが、スフレチーズケーキに焼き付けられた店名のようにじゅッと柔い心に残った。

知らない人と気さくに話す、それは遠い国の人がやることだ。
前に、英語のクラスでゴルフコース建設賛成のエッセイ(どんなエッセイ)を書いたことがある。その中の一文で、まるで決め台詞のように、“カフェで知らない人と友だちになることはネヴァーエヴァーネヴァーないけれど、ゴルフというスポーツを通してならありうる”てきなことを書いたら(稚拙な論拠)、先生に『カフェで知らない人と友だちになることはあるので、このNeverは適切ではない』とバッサリ斬られた。ガーン。アメリカという国は、どこでもコミュニケーションが始まるんだなとカルチャーショックを受けた。
公園で他人と話すなんて、それはそういうアメリカの文化であって、自分は日本人だし、そもそもそんな外向タイプじゃないしィ、と殻にこもっていた。でもそれと同時に、どこかで、そういう選択肢をとってもいいんだ、とも思ったのだ。
以来、公園に向かいながらトンテンカンと大建設していた”絶対に誰とも話さないゾ”鉄壁を、ふわりと風になびくカーテンにしてみた。誰でもいつでもウェルカム、そしてたまに自分もカーテンからコンニチワする。ただ年齢を聞いて終わるだけのこともある。あはは。でも、そうすると、なんでか、日常の重しが公園から出るころにはだいぶ軽くなっていることに気がついた。

外向的な自分も、内向的な自分もいていいジャン。別に自分に一貫性なんてなくていいのだ。自分は内向的であるという枠をびりりと少し破って、自分の中の自分を増やしてみたら、少し生きやすくなった、そんなお話でした。
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