公園で息子が木片をパラパラと落として遊んでいる。今はわたしの出る幕ではない。あァ〜いい天気だナァ〜と深呼吸をしながら周りを見渡すと、広いグラウンドで1人で黙々と走っている女性が目に入った。

病み上がりで遅れを取り戻そうとしているのかもしれない。誰かが亡くなって悲しみを紛らわすために走っているのかもしれない。今週末に控えたレースに備えて最終調整をしているのかもしれない。
彼女にとってそのランがどういう意味を持ったものなのか知る由もないが、自分には、目標に向かって無我夢中で自主練に取り組んでいるように見えた。
眩しいッ。サンサン降り注ぐ太陽よりも眩しいッ。誰もいないグラウンドで自分だけ練習しているあの充実感や特別感。そんな感覚を最後に感じたのは、、、い・つ?きっと、大学の部活が最後だろう。仕事も渡米後の生活も、マイナスからゼロにすることばかりで、プラスαに取り組んでいる感覚は皆無だった。
今、あの充実感を感じることは可能なのか?
最近の自分はといえば、とにかく起床直後から息子の体力を使い果たすことを目的に公園に行き、友人に会い、じゃれる。そして冷蔵庫の扉を開けて息子にあげるものが・・・ナッシングと立ち尽くし、自分たちのご飯を作り、部屋を整え、夜の時間でチョコチョコっとやりたいことをやる。積み木が倒れては戻し、倒れては戻し、そんな日々の連続で疲弊しつつある。てへ。
充実感を感じるのに大切なのは、目標を持つことである。そしてその目標に向かって自分なりのやり方で進んでいくこと。この自分なり、があると同じ日々の繰り返しもきっと変わるんじゃないか、となんとなく思った。なんとなくね。あはは。
家事や育児の場合、最終目標に人それぞれの差はない。終わらせることと、生かすことである。同じ目標に特別感や充実感があるわけがない。(言いすぎか)だから、やり方を工夫する。家事だったら、自分なりにどこにこだわるのか考える。シミ抜きマスターになろうでも、冷蔵庫在庫処理マスターになろうでもいい。
子育てだったら、心なのか体なのか頭なのか、それとも全部なのか、どの部分の教育に想いを持って取り組むのか、そういうところにただ子どもを生かすだけでない、自分なりのプラスαが見出せると思う。

木片で遊ぶ息子に目を戻す。周りには誰もいない公園で彼と遊ぶのも、見方を変えれば充実していると言えるかもね。
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