不安感が止まらないのだ。緊張感を表す言い回しでbutterfly in one’s stomachという英語があるが、まさに、ちょうちょが喉からお腹にかけてずっと移動しているようなそんな感じがずっと続いていた。
「今やっていることが正解かどうかなんて今わからないよ。何年後かに答えが出る。不安だよ。怖いし。だけど怖いからってやらなくていいの?」とイチロー氏が何かのイベントで話していた。(野球ファンではないけれど、悩んだらイチローなのだ)この不安な気持ちは、正しいと受け入れるべきものなのか。
それにしてもおかしい。どうも息苦しい。足が床につかない。ちょうちょが1ミリばかりわたしの体を持ち上げている。なぜだ。いまの生活は自分が心の底から納得したことに囲まれているはずなのに。いまやっていることの成果がすぐ出ないことなんて覚悟したはずなのに。ちゃんと毎日、スケジュール帳に花丸をつけて終えられているのに。あはは。
数日ほど考えて、ある夜、答えに辿り着いた。その日は外出ばかりでヘトヘト、かつやるべきことにもほぼ手が着いていなかった。息子まるの就寝後、さすがにもういいやと開き直ってサザンの真夏の果実を、四六時中もスキィとイッテェ♩などとフンフンしながら、1つ1つタスクをこなしていった。ここで、ちょうちょがどこかへ飛んで行った。
真夏の果実が作り出した没入感にハッとした。育児の隙間時間に“やれることをやる”でなく、“やるべきことを全部やろう”としていた。時間に囚われすぎていたのである。
朝夫が息子まるを散歩に連れて行けば、あと20分か、それで何ができるんだとソワソワとしている間に、2人が帰宅する。(絶望)息子まるの昼寝中ならいつ起きるか、就寝後なら自由時間まであと何分か、その間に立てた予定は全てできるのか、何かをやりながら常に次のことに辿り着けるのかを考えていた。
コントロール不可能な育児のすき間時間にタスクをギチギチにねじ込んで消化しなければという、その緊張感が不安感の正体であった。タスク自体でなくタスクをこなすことが目的となり、子育てという長距離走で短距離のごとくダッシュして、追ってくる時間(ウサインボルトレベル)から逃げていた。そりゃあ、動悸がするね。
そのことに気がついてから、できる時にやれるだけやれればいいや思考に切り替えた。ご飯作って、息子のお世話するだけで100点なんだから、それ以上のことはできればラッキー、できなくても100点、そう考えるようにした。ウサインボルトと一緒に走れているだけすごいじゃないか。わたしはわたしのペースで走りますよォ〜と手放した。そうしたら疲労感も半減し、タスクの効率も上がった。パチパチ。
限られているからこそ時間を強く意識してしまうけれど、限られているからこそ時間から解放されることがいまの生活では必要だと気がついた、そんな今週でした。
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