友人から妊娠の知らせを受けたある日。(めでたい)妊娠が発覚し、まず彼女の頭に浮かんだことは仕事のことだったという。部署異動や昇進で仕事に力を入れていこうと思っていたところでのことだったから、年度内に産休に入らなければいけないのかと考えてしまったと、周りに報告をする中でこれはおめでたいことなんだ、と思えるようになってきたと。ふむふむ。
そして考えた。妊娠というか、子どもができることの尊さを子どもを産む前から本当の意味で理解できる人はいるのだろうか?少なくとも私は全くであった。あはは。
あくまでもこれは私の話だが、「子育て」で想起されていたのは、おもちゃが散乱した部屋、永遠のごはんタイム、食べ物でぐちゃぐちゃになった子供の顔と床、睡眠不足、自分の時間ゼロ、ということであった。(恐怖)
姪っ子とはじめてお風呂に入った時、(キャッキャと楽しく入ることを想定していたのに)姪っ子にギャン泣きされ、子育て無理だと本気で思ったこともあった。
だから、ちょうどこれからと思っていた教育プログラムの仕事が出来なくなるとか、まだアメリカでこれだというキャリアも見えてないのに、とか、そんなことより、大好きなお酒もカフェインも摂れないじゃんピーピーピーピーと、とにかく自分、自分、自分であった。
望んだ妊娠だったけれど、これがマタニティブルーというのか、これから待ち受ける新たな人生に心躍らせるよりかは、出来なくなることを1つ2つと数えてしまっていたのが現実であった。
ただ今振り返って感じるのは、それらの気持ちは当たり前だということである。子育てのかけがえのなさは子育てを実際にやってみることでしか知り得ない。
ストローラーの中で周りの景色に興味津々に頭をキョロキョロとさせるところ、いつのまにか洗濯機にたくさんのおもちゃが入れられているところ、あ、あ、と全てのものを指さして「ちょうちょ」と言うところ、抱っこされてぎゅっと我の幅広肩を握りしめるところ、新しい発見があると1人でヘヘェと笑っているところ、トトロのメイちゃんのような顔して絵本を覗きこんでいるところ。心がきゅっとちいちゃな温かい手に掴まれる。これらはSNSで見かけることはないし、何より自分で感じてみないとわからない。
もちろん、上に述べたような混沌としたことにイライラしたり、大きなため息が出ることもあるし、車でふと横目にしたドライブデートをするカップルに対してイイナと思うこともある。あはは。でも、その度にこの言葉にできない温かみに助けられてきた。
わたしが妊娠中にウジウジとしている時に、一筋の光となったのは、「また豊かな人生になるね」という姉からの言葉であった。自分のこと以外に囲まれるのも幸せの1つのかたちだと今は思えている。
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