Life of T

アメリカ・ボストンでの生活のこと


子育て日記「息子、卒乳る。」

2025年3月25日、息子が卒乳した。クループとかいう訳のわからん風邪とともに息子が乳への興味を失ったのである。母乳育児のメリットは数えきれず、本当は1歳になるまでなんとか続けたかったが、まあ興味がないところを無理に与えようとは思わない。というかそのエネルギーがもうない。へろへろ。ということで今日は記録がてらわたしの授乳史でも書いておこうか、というところである。

始まりは、前の日記でも書いたが、出産当日の深夜だった。産んですぐ、数時間前の自分とは何も変わっていない、いや確かにお腹の中の命が外に出たけど、それ以外は何も変わっていないのに、この赤子に乳を飲ませろとナースに言われたところからだった。「ま、まだ出ません」必死の抵抗を示したが、ナース「とにかく咥えさせるの」ぴしゃり。母の戸惑いをよそに、赤子の生命力いと強し、最初からまるでたこの吸盤のように容赦なく吸い付いてきた。

それはそれは、脂汗が止まらない痛さであった。街中の授乳しているお母さんたちの涼しい顔を思い浮かべては、どういうこと?授乳ってこんなに大変なものなの?そんなの聞いてないよぉ・・と弱音が止まらなかった。この頃は訳も分からず、片方20分くらいあげていて、母に20分?!とめちゃ驚かれた。そんなに驚くか?と朦朧とした意識の中で感じたことだけ覚えている。片方20分ということは、両方で40分痛みに耐え続けるということであり、そして次の処刑(笑)まではあと2時間20分ということになる。

いつからかは覚えていないが、1〜2ヶ月の間で母乳とミルクの混合にすることにした。授乳の間隔が5時間以上になるだけですごく気持ちが楽になった。外で授乳するのに抵抗のあったわたしにもちょうどいいやり方だった。外出前に母乳をあげて、と常にスケジュールは母乳との相談だった。この母乳スケジュールも、なかなか脳のキャパシティを蝕むタスクであったと振り返る。ただわたしはまだ楽な方で、ミルクの温度や飲み口(ボトルか乳首か)など細かいことを気にしなかった息子には大感謝である。

そしてたしかに、2ヶ月目くらいから授乳時の痛みはなくなった。そうあれは、乳腺が開通する痛みであったのである。開通したらもうそれは、唯一のぼーっとできる、かつ息子のかわいい横顔を眺めていられるしあわせ時間となっていった。吸われ始めにジョボジョボと母乳が量産されていくあの感覚は非常に快感であった。

母乳が難なく出るようになってからは、乳腺炎に何度か苦しまされた。ワインなんか飲まなきゃいいのに、我慢できずに飲んでしばらく時間を空けるものだから、母乳が溜まって、歯が鳴るほどの寒気と高熱と胸の痛みに悶えた。胸冷やす、乳飲ます、タイレノール(アセトアミノフェン)でなんとか乗り切った。最終的には、あ、くるな、と発症の予期し、最悪の事態を未然に防げるようになった。

母乳育児が軌道に乗ってからは、母乳は昼寝または就寝前、または夜泣き時の最終手段として都合よく使われていた。

3ヶ月、6ヶ月、9ヶ月あたりの発達の節目では母乳拒否を経験した。視力が上がったり、ずり這いできるようになったり、ハイハイできるようになったり、新しい世界が見えるようになり母乳よりも他のことに興味が行くからだそうだ。ここで母乳が終わったら困ると日々不安が募ったが、1週間くらいでなんとか落ち着いて乳を飲むように戻った。

しかしその拒否を経験するたびに授乳時間は確実に短くなっていった。20分が15分になり、15分が10分になり、10分が5分になり、5分が3分になり、3分が1分になり、そして3月25日、0分になった。10ヶ月と19日であった。

解放された、というのがまず1つ。カフェインやアルコールの制限などは徹底的ではなかったけれど、飲兵衛かつカフェイン大好き人間であるわたしにとってエネルギーを使うものだった。

次に、ちょっとした喪失感。渦中にいると、あれも飲めないこれも飲めないという不満、断乳への不安など多少、心理的な負荷がかかることがあったけれど、終わってみると、そうやって人のために考えて行動していたことへの美しさを感じる。終わってみると、ね。あはは。もうこれで息子とは完全に別個体になった。

最後にもう本当に飲まないよね?と卒乳2日後くらいにひっそり残り乳を飲ませてみたら、「なにこれ?人の飲むものなの?」みたいな顔をしてた。(さみしい)

ちなみに、息子卒乳というニュースに夫氏「それはいいの?悪いの?」あはは、ははははぁ。笑い。1つの大きな仕事を終えたということで、自分、よくがんばりました。パチパチ。次は離乳食作り、頑張りましょう〜



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