社会人になりたてで色々とくすぶっている時、姉に、1日1行自分を褒める日記を書くといいよと言われたことがある。健気に「にこにこ日記」というエクセルファイルを作って、言われた通りにしようとした記憶がある。何のためになるのか?と疑念止まらず、長くは続かなかった。あはは。でも今は精神的成長を遂げた故、その強化版、何やってもほめる日記が新年から約3ヶ月続いている。今日はその効果について書いていこうと思う。
自分をほめること、これが意外と難しい。なぜ?というのが最近の自己理解のテーマなのだけれど、焦りが原因の1つにあるように思う。1日でやったことを褒めたくても、ある目標とか理想の像を意識して「こんなことやってる場合じゃないのに」とか「できる人(だれ?)はもっとやってる」とかそういう語りかけが止まらない止まらない。あはは。だから、ほめると、なんか自分が目標から遠のいてしまう気がして、ひたすらに前に進め進めッと鞭を打ちまくる。
そうやって、鞭を打ち続けるとどうなるか?1日、1日、これくらいできるよね、ということすらできなくなってくる。ソリャァそうだ。その日の精一杯をやっても、まだまだァと鞭を打たれ続けたら、やりたくもなくなる。結果、何もできずに、さらに自分を責めて悪循環に陥る。そして最近気が付いたのは、こうやってメンタル鞭の思考になるだけで本当に体力を吸い取られるということ。だから、さらに何もできなくなって、自分の”核”が心の片隅で体育座りをして一切動かなくなる。
「強化版にこにこ日記」がその救世主となった。1日の終わりにやったことをほめる。夜ごはん作った、離乳食作った、掃除機かけた、バスマット洗濯した、夫の話を親身に聞いた、レジュメ数行進めた、公園に行った、絵本10冊読んだ、自分の時間を確保できた・・よくやった、自分めっちゃえらい!今日も素晴らしい1日にできた、明日はもっと素晴らしくなるね。とその日の日付に花丸をつけて締めくくる。(ハム太郎?)

そうすると、何が起こるか。体育座りしていたはずの”核”がのそのそ、と動き始める。今日、自分に褒めてもらうために何をしようかな?と考えるようになる。(もはや狂気)ふと時間がある時に、床を拭いたり、仕事について調べたり、家計簿つけたり、本を読んだり、人と会う予定を作ったり、行動が生まれるようになった。
ここでもうひとつ、面白い観察結果がある。数週間前くらい前、褒めることに慣れたのか、無意識に、「もっとこうできたはずだ」という内容が多くなっていった。すると、「やりたいことができたか」のWantばかりに目がいくようになり、日々のやらなきゃいけないこと、ご飯作るなどのMustが知らず知らずのうちに苦しくなっていった。そして、日々の幸せ度が激減した。
「自分で立てるようになった?そんなのまだまだァ、あなたは世界新を出すような陸上選手になることが目標なんだから」との声かけに、赤ちゃんは“健やかに”歩けるようになるだろうか。「自分で立てるようになったの、すごいね、うれしいね」と寄り添われながら、赤ちゃんはまた新しい「歩く」という目標に楽しく向かっていくことができる。
大人になると、そうやっていちいち褒めてくれる人はいないから。自分で自分を褒めてあげる、それが心地よく生きていくためには必要だね。
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