趣味は読書です、と言いたい人生であった。理由は明白、インテリっぽく見られたい、というだけである。浅はかなことこの上なし〜。そういう邪な気持ちで購入したカミュの異邦人とか、岡倉天心の茶の本とか、ドストエフスキーの罪と罰とかは、結局開かずの本と化している。辻仁成氏の本棚にあったという理由だけで手を伸ばしたサルトルも最初の段落で挫折した。わたしにはなんかよくわかんなかった。
まあ、そういう、インテリになりたいと願いながらインテリにはなれない自分、人間らしくて嫌いではない。が、最近、息子の前で携帯を無意味にいじくりまわすのは母親としてどうなのかと思う部分もあり、読書を習慣化あわよくば趣味化したいと本気で考え始めた。そしてまずは手始めに「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」という本を読んでみた。スマホではなく本を手に取るヒントを得られると思った。

まとめると、現代人が本を読めなくなったのは、2000年代以降に「好きを仕事に!」と働くということに過剰に意味づけを行ったこと、そして、IT革命でインターネットが台頭し、得たい情報を手軽に速く手に入れられるようになったことが背景にあるという。働くことがアイデンティティとなる時代に、”情弱”という言葉が象徴するように、情報をうまく活用できるものが勝者、世の中がそんな風潮になっていった。必要な情報を得る、という点では本はコスパが悪い。本は関係のない情報(他者や歴史や社会の文脈、筆者はこれらをノイズと表現した)に溢れているからである。こうして読書が娯楽ではなく情報を得るためのものへと変容し、さらには仕事で自己実現をしようとする忙しい現代人の情報源として、ノイズのないインターネットに敗北した、ということらしい。(で、本を読むにはどうしたらいいのさ?に対しての筆者の結論は興味深しだったので気になる人は読んでみてくだされ)
訪ボストン中の祖母がある日、先日ブログ内で紹介した「おいしいイギリス」の著者林望さんのエッセイ「愉快なイギリス」を手にとって読んでいた。祖母はアメリカだけでなくイギリスにも住んでいたことがあるから、色々と共感できることがあったのだろう。ふふっと笑ったかと思ったら、唾が気管に入ったのかゴホゴホゲフォォォと咳き込んだ。そしてまた何事もなかったかのように読書へ戻っていった。
読書そのものを楽しむ姿がそこにあった。そして気がついた。自分は明日役に立つ“何か”を求めて読書をしていたのではないか。そんなに仕事とかやるべきことに生きる必要あるのか?唾を飲み込むことを忘れるほど純粋に読書を楽しむこと、読書に時間をかけること、それができれば、ふとした時に携帯ではなく本を手に取れるようになれるかもしれない。ドストエフスキーとかサルトルも読もうという気になるかもしれない。あははは。とは言え、さすがに文学少女とはかけ離れた自分が貴重な自由時間を使ってそれらを読もうとは思えないので(というかそもそも子どもを横に読めるほど安易なものではないはず。笑。)、最近は自分が心の底から好きだと言えるエッセイ集をメインに、お勉強系はサイドディッシュ(導眠剤)として読むようにしてみている。
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