「僕は29歳までをモラトリアムだと捉えています。30歳になる前に、”自分がどう社会に貢献するのか” “何を成し遂げるのか?”ということを改めて考えて欲しいと思います。」水泳を引退した時に、部活の前監督から送られてきたメッセージの一部である。当時はモラトリアム?ほえ?レベルであったが、以来、なぜかこのメッセージが頭にこびりついては離れなかった。そして20代前半、この言葉は慰めとなり、30代が近くにつれ、それは危機感へと変わっていった。
このメッセージのせい(おかげ)で、今まで30歳になることに恐れを抱いて生きてきた。30歳になったら何かを決めなきゃいけないんだ。30歳になったら、いつまでもどうやって生きようかなァとウジウジとしているのではなく、自分にあるものとないものを区別して、あるものを最大限に活かしていくという覚悟を決めなキャいけない。人生の可能性を狭めるの、コワイ。でも考えて考えて、自分の能力にはようやく、いい意味で諦めがついてきた。でも、それでもまだ踏ん切りのつかない自分の最後の石橋叩きに、人生の先輩に話を聞いてみた。90歳の祖母である。
「30歳に戻れるとしたら何をしたい?」「やりたいことがありすぎて困っちゃうわ」「何か、後悔はある?」「ないわよ。だって、やりたいことは全部やってきたんだもの」
ほほー!やりたいことをやる、人生はシンプルであるね。シンプルである。でもそのシンプルなことが難しい、そんなことをつい最近肌で感じた。誕生日を迎えるにあたり、夫が「何がしたい?何が欲しい?」と聞いてくれたのである。わたしは、そこで、うーん、とはぐらかした。自分の欲しいものを他の誰かに考えてほしいと思う自分がどこかにいる。だって自分のやりたいこと、自分の欲しいものを考えるのには体力を使うからである。
なぜ、やりたいことや欲しいものを考えるのに、そんなに体力を使うのか?失敗したくないからである。後悔したくないからである。何かを自分で選択して、やっぱり違った、ということを恐れるからである。時間は有限だから、無駄にしたくない。常に最善の選択をして生きていきたい。そしてプレッシャーに負けて、その選択を外部的なものに委ねる。そうすれば、逃げ道を作ることができる。まだ自分は本気で考えてないから、何かがちょっと違ってもしょうがないと。自分にぴったりとはまる「何か」は自分が本気を出せばやってくるんだと、希望を持つことができる。
でも、その「何か」は、自分で明確にしない限り一生やってこない。水泳を引退し、就活で失敗し、会社でもがき、アメリカで何者でもなくなり、ようやく気がつき始めた。90歳の祖母がはるばるボストンまで来て、大好きなロブスターを食べ、紅葉を楽しみ、ひ孫に会えることができたのは、祖母がやりたいことを明確にしたからである。母が祖母のやりたいことを察してお膳立てしたのではない。誕生日に何がしたい?と祖母が聞かれたら、はっきりとこれが欲しい、これがしたい、と伝えるのだろう。自分のやりたいことを他人に委ねず、妥協せずに考え抜きそして実行する力が祖母にはある。だから祖母は後悔ない人生だと言い切れるのだろう。
母は言った。30歳に戻れるなら、仕事がしたいと。寿退社という概念?が存在した時代、家事育児は全て母の役目にならざるを得なかったから、母は仕事を諦めた。そうやってやりたいことを犠牲にしてまで大切に育ててもらったことをとても有り難く思うと同時に、自分たちのお世話で母はやりたいことができなかったんだなと子どもとしては少し苦い気持ちにもなる。そして恐る恐る聞いてみた。「今もずっと後悔してる?」「ううん、もうしてない。今、好きな仕事ができているし、娘の仕事のサポートもできているから」
自分の選択に後悔するどうかは、自分で決めることができる。まずは逃げずに自分のやりたいことを突き詰めて考えること。そして頭に何か浮かんだなら、やってみる。それで結果、うまくいかなかったとしても、それを自分で自分らしい人生とすればいい。
自分で書いていても耳がちぎれそうに痛くなる。でもこうやって色々な人の言葉に導いてもらいここまで元気に生きてこられました。ありがとうございます。
さあまずは誕生日プレゼントを何にするか、本気で考えてみよう。へへへ。
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