息子がかわいくなってきた。いや、息子はずっとかわいい。自分が息子をかわいいと思える精神状態になった、という方が正確かも。生まれる前は、自分から生まれる子どもってどれだけかわいいんだろうとワクワクしていた。姪っ子でもこれ以上なくかわいいのに自分の子ときたら格別なのかも、むふふ、なんて。けど、正直にいうと、自分は最初から息子をかわいいと思えたわけではなかった。だって、股の間から出てきた息子は宇宙人みたいだったから。笑 鼻高いかな、目が切長なアジアン顔になるんだろうな、どこが自分に似るかなとか、お腹にいるときに勝手に膨らんだ息子への妄想と現実のギャップにびっくりした。全体的に顔が腫れて、何も自分に似ていない。(どーん)胸の上に乗せられて抱きしめた瞬間、そのふにぃもちぃっとした肌の感触に安堵したことを覚えているけれど、血の繋がり以外にこれが自分の息子であると思えるものがなく戸惑った。この子に無償の愛を注いでいけるのか?とても不安になった。
その夜、母子同室か、別室かを聞かれたけれど迷うことなく別室にした。(←)覚悟はしていたけれど、体力の消耗と急な役割の変化にちょっと、一旦タンマ、しないとだった。それでも、産まれたら育児を止めることはできない。3時間ごとにナースが息子を私の元に連れてくる。授乳の時間である。夜の10時近くに息子を産み、満身創痍な中、早速おっぱいを吸われることになるのである。戸惑う私「まだ母乳、出ないと思います」ナース「吸わせれば出るようになるのよ」と、息子の顔を私の乳首に押し付けられる。そして凄まじい勢いで乳首が吸われる。(生命力すごし)激痛である。「い、痛いです」「最初だけよ、慣れてくるから。」そんなあ。新米ママに容赦ない。バレーボール選手が腕にボールが当たっても痛くないように、授乳も乳首が慣れて、そして母子ともに要領を掴んで、徐々に痛みは無くなっていくものらしい。乳首の痛み、股の痛み、寝不足に全身の筋肉痛。これらの不快症状だけならまだいい。そこに我が子を育てなければならないという責任がのしかかり、我が子を愛でる心の余裕は皆無だった。
入院中、ベビーベットに横たわる未知の生物をまじまじと見て、これが私の息子かあ、と不思議に思う日が続いた。夫は、息子を見て「目に入れても痛くないってこういうことかぁかわいいなぁ」と言っていたけれど、私は息子だとしても目に入れたら痛い、とても入れられない、と本気で思った。口には出せなかった。あれ、みんなの言う我が子はかわいいって、自分、思えてないかも、と葛藤した。でもある日、授乳後ヘトヘトになりながら母に息子を手渡したら、「幸せターイム♪」と言っていたのをみて、気がついた。子育ての大変な面ばかりに目を向けて、かけがえのない時間を感じることを忘れていた。
親になったら、ホルモンか何かが出て、自動的にどんな状況でも子どもを第一に考え、愛することができるようになれると思ってた。でも、2ヶ月経って、生活にリズムが出てきて、身体も回復してきた今、そうじゃないことに気がつきつつある。親としての愛も子どもの成長とともに育んでいくものなのかもしれない。息子のお世話より自分の食欲を優先したり、うんちを放置したり、無理やり服を着せたり、授乳パッドを換えそびれてカビが生えたり(え)、そうやってごめんねを繰り返していく中で親として精神的に成長できるのかなと。ちなみに夫は、真夜中に泣き止まない我が子にパニクってうるさいなあと暴言を吐いていた。(大粗相である)こういう試行錯誤の中で子どもが喜んでくれたり、昨日できなかったことができるようになったり、自分たちを求めてくれたりすることで、徐々に子どもへの愛着が形成されて、「目に入れても痛くない」存在に変わっていくのかなってね。
いまは通りすがりの人にHe’s so cuteと言われサンキュー、と答えていたものが、アイノーウになっているくらいである。実母と義理の家族の2ヶ月のサポートと夫との協力のおかげ。少しずつ親メンタル、鍛えていけばいいよねぇ
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